ウズベキスタンについて

一般情報

正式名称:    ウズベキスタン共和国
地理的位置:   北緯41 00 N東経64 00 E
面積:      合計 447,400 平方キロメートル(地表面: 425.400 km2, 水表面: 22,000 km2
国境(地上):  合計 6.221 キロメートル。国境を接する国: アフガニスタン 137 km, カザフスタン 2.203 km, キルギスタン 1.099 km, タジキスタン 1.161 km, トルクメニスタン 1.621 km
人口:      2,400万 
人口密度:    平方キロメートル当たり50.1
首都:      タシケント
言語:      ウズベキスタンは他民族国家。公用語はウズベク語。ロシア語は民族間共通語。
国家構成:    カラカルパクスタン自治共和国、12州、226都市および地域。
宗教:      イスラム教
標準時:     グリニッジ標準時(GMT)+5:00
電気:      電圧220ボルト(交流)、周波数50ヘルツ、プラグは2つの丸ピンタイプ。
ドメイン国別コード:  .uz
国際電話国番号: +998

気候

ウズベキスタンは極めて大陸的な気候で、天気は一年のほとんどが快晴です。1月の月間平均気温は摂氏-10度から+3度です。夏は高温で乾燥しており、7月の月間平均気温は摂氏+35度から+45度です。秋は十分暖かく、どこのバザールでも美味しい果物や野菜が豊富に出回る季節です。年間平均気温は摂氏13度です。

祝祭日

1月1日 :  新年
3月8日 :  国際婦人デー
3月21日 : ナウルーズ(春祭り)
5月1日 :  労働者の日
5月9日 :  追悼の日
9月1日 :  独立記念日
10月1日 : 教師の日
12月8日 : 憲法記念日

この他に、以下のような、日が移動する宗教的な祝祭日があります。
ラマダン・ハイト
クルバン・ハイト

服装

日中は、非常に軽くてゆったりした服装、ただし夜間涼しくなるかもしれないので、軽いセーターやキャジュアルなジャケットを持っておくことをお薦めします。乾燥して、埃っぽく、時には泥や砂利道などの悪路を徒歩で観光することが多いので、丈夫な靴底で、しっかりと支えてくれる、快適で頑丈なウオーキング・シューズが不可欠です。宗教施設などに入場する際に靴を脱がなければならないこともあります。イスラム教の宗教施設を訪問するための特別な服装規定はありませんが、腕や足のほとんどの部分を覆うように心がけてください。旅行者の皆様に一番お薦めしたいことは、「ファッションより快適な服装」ということです。高価な装身具や、特別な手入れが必要な服装は、家にしまっておいたほうがよいということです。控えめな服装で、現地の文化や伝統に敬意を払い、かつ高価なものを持ち歩くことは最小限に留めてください。

荷物

滞在中、カメラなどの荷物を持ち運ぶ最も実際的な方法は、丈夫なベルトのついたショルダーバッグか、小さなリュックサックです。トルクメニスタンを除く中央アジアの航空会社の国内線の無料手荷物許容重量は、ひとり20キログラムと、機内持ち込み手荷物1個までです。トルクメニスタンの許容重量は10キログラムです。

健康

皆様が旅行される地域は、通常、重大な伝染病の汚染がない地域ですので、外国人旅行者に対して、正式にワクチンの予防接種が要求されることはありません。しかし、最新の保健関連の警告や、済ませておいたほうがよい予防接種について、予防接種センターの医師に相談されることを強くお薦めします。中央アジアのように、水の中の鉱物や金属塩化物の含有量が多い国では実際は避けるのが難しいことですが、若干の胃の変調がありうることを覚悟しておかなければなりません。対策については、かかりつけの医師または薬剤師に相談しておいてください。 重要で必要な薬品は、スーツケースを一時的に紛失した場合でも心配ないよう、手荷物の中に入れておくようにしてください。  

買い物

ウズベキスタンへの旅行者は、興味深い装身具、衣類、地域色豊かな民芸品の数々に喜びと驚きを感じることでしょう。書籍、絵葉書、地図などもお土産として人気があります。 絨毯の国外持ち出しについては制限がありますので、購入される前に、最新の情報をガイドにご確認ください。

 

歴史

 

ウズベキスタン領内に住む各民族の文化は、豊かな歴史に彩られています。紀元後8世紀には、アラブ人のカリフの軍隊が、アムダリヤ川とシルダリヤ川にはさまれた地域、すなわち「マワランナフル」(川向こうの土地)と、アムダリヤ川の南に広がるホレズムに侵攻しました。この征服によって、サウジアラビアで生まれた、イスラムと呼ばれる新しい宗教が、この地にもたらされました。同時期には、拝火教のほか、仏教、ユダヤ教、キリスト教などの他宗教もありましたが、これ以降、イスラム教がこの地域を席巻し、その文化の極めて重要な一部となりました。

 

マワランナフルは、社会生活および文化生活の中で重要な役割を果たし、カリフ傘下の地域のなかで最も進んだ地域の一つとなりました。大シルクロードは、西と東を結び、南や北の諸国の人々もこの土地を通過しました。ブハラ、サマルカンド、クニャ・ウルゲンチなどのマワランナフルの諸都市は、インド、中国、ビザンチン、スラブ諸国そしてアラビアからの隊商ルートの交差点でした。

 

カリフ領の支配者マフムッドの命令によって創建された「ビテ・ウル・ヒクマ」(賢人の館)は、アリストテレス、プラトン、アルキメデスなどの古代ギリシャの科学者や哲学者の書籍を、古典ギリシャ語からアラビヤ語に翻訳するという大事業に取り組みました。ムサ・アル・ホレズミ、アフマッド・アル・フェルガニ、アル・マルバジ、ジャフハリ、マルバルディなどの、マワランナフルの輝ける若き科学者達は抜群の成果を上げました。バグダッドは、世界の科学および文化の中心地のひとつになりました。

 

カリフ支配の抑圧からの自由と独立のための中央アジア諸地域の戦いは、この時期に盛り上がり、9世紀末までに、ブハラを首都とするサーマーン朝が興りました。そして、この王朝は10世紀末まで続きました。10-12世紀には、カラハン朝、カズナ朝, セルジューク朝、ホレズムシャー朝などのいくつかの独立国家が、マワランナフルとホレズム地方に出現しました。影響力と領土の拡大のための果てしのない戦争にもかかわらず、この時期は、この地域における文化的そして科学的活動にとって極めて重要な時期であったと考えられています。政治的に独立した自治国家の樹立がよいきっかけとなり、地域の経済的、文化的発展の素晴らしい機会が切り開かれたのです。この時期は歴史上、東洋のルネッサンスと呼ばれ、前例のない道徳的規律が生まれたことで知られています。

 

アブ・ナスル・ファラビ、イマム・アル・ブハリ、ナルシャキ、マフムッド・カシュガリ、マルギナニ、ナジムミディン・クブロ、アブ・ライハン・ベルニ、アブ・アリ・イブン・シノ、アズ・ザマフシャニなどの輝かしい哲学者や、ルダキ、ユスフ・ハス・ハジブ、アフマッド・ヤサビ、アブ・バクル・アル・ホレズミなどの著名な詩人の、誕生・収穫の時期が来たのです。

 

同時期に、ムタジリヤ・イスマイリヤ・スーフィズムとして知られる、自由な思想で知られる、新しいイスラム教運動が出現しました。ブハラ、サマルカンド、メルブ、ウルゲンチ、ヒバの諸都市はイスラム教国の中で人気のある都市になりました。工芸品、建築、建設は急速に進みました。11世紀の初めに、マムン・ホレズム・シャーの命令で、東洋の指導的な科学者達が働く、新しい研究センターがホレズムに創立されました。それは後にホレズム・シャーに寄贈され、中央アジアにおける最初のアカデミーとなりました。マワランナフルの文化と科学が、世界的な名声を得る時期が来たのです。しかし、この急速な成長は13世紀の初めに、唐突に停止させられました。モンゴルのチンギス・ハーンによるこの地域への侵略で、全ての都市、灌漑施設、文化施設は、2度、3度と繰りかえされた攻撃で、壊滅してしまいました。14世紀の後半、外国からの征服者を排除し、独立を勝ち取るための闘争が起こりました。この闘争の決定的な要素の一つだったのが、アミール・チムールのたゆみない行動でした。チムールはすこしずつマワランナフルとホレズム地域からモンゴル人支配者を追い出し、14世紀の終わりには大きな領土を持つ強力は国家が樹立されました。チムールは主に政治権力の強化と、経済と文化の発展を重視しました。彼の国家経営の根本原則は、「チムール法典」として知られる書類に書類に記されています。チムールの死後、チムールの一族は芸術、科学、文化の振興に意を注ぎました。

 

殊に、ウルグベック、シャールフそしてフセイン・バイカロが治めた時代には、文化は当時の頂点に達し、マワランナフルとホレズムの2都市は東洋のイスラム世界だけでなくヨーロッパを含めた全世界に認知されました。これは中央アジア・ルネッサンス後半の最後のことでした。ウルグベック、コジザダ・ルミ、アリ・クシチ、ミルシャリフ・ジュルジャニ、ジャミ、ホジャ・アフラール、ルフトフィー、ホンダミフル、ベクゾッド、バーブル、その他大勢の偉大な哲学者達が世界に認知されました。アリシェール・ナボイは15世に生き、不滅の傑作を生み出しました。いろいろな文書に書かれている通り、チムール一族のウルグベックは、サマルカンドで、ウルグベック・マドラサと呼ばれる科学センターの建設を進めました。

 

この時期には、記念碑や文化施設が建設され、ウズベク詩、細密画、書道が急速に成長し、天文学、数学、歴史学そして医学などの科学が、数々の方向に発展していった時期でした。

 

しかし、15世紀末には内紛が頻発し、16世紀の初め頃チムール帝国は滅んでしまいました。チュルク系の遊牧民族が北から来て征服者となりましたが、17世紀の初めには、チムールのひひひ孫で、フェルガナの支配者であるバーブルがインドに攻め入り、大ムガール帝国と呼ばれる国家を樹立しました。チムール一族はこの国を、英国のインド侵入まで支配しました。

 

17世紀以降、マワランナフルは社会的にも経済的にも最悪の衰退を経験しました。しかし、その時期にも、アフムディ・アジム、カラバギ、アブドゥルギズハン、トゥルディ、マシラブ、ノディラ、ウバイシ、グルハニ、マフムドクリ、ベルダフなどの人々が、論文や文学作品などで名声を得ました。

 

19世紀の前半、ムハマッド・ラヒムハンはホレズムの歴史と文学に注力しましたが、それはちょうど、ムニス、コミル・ホレズミ、アガヒ、バヤニなどが活躍した時期でした。

 

19世紀後半には、トルキスタンでは社会的・経済的・政治的な大事件が相次ぎました。1860年代にはロシアによるトルキスタン征服が始ました。

 

この時期には、反植民地主義的な改革的啓蒙運動があり、トルキスタンの文化や社会生活に影響を与えました。各地の文化に根ざした啓蒙運動は、何人かを挙げると、アフマッド・ドニシュ、フルハット、アバズ・オタール、ムキミーなどの科学者や詩人たちによって先導されました。大変革がこの時期のトルキスタン文化の特徴でした。

 

19世紀末、啓蒙運動の中からジャディディズムが生まれ、新たな教育、啓蒙、社会文化政策が推進され始めました。ベフブディ、フィルトラット、アブドゥラ・アブロニ、ムンナブハル・カリ、ハムザなどの著名なジャディディストの活動や業績が、次第に人々の間に広まりました。雑誌、新聞、書籍、教科書が現れ始め、民族の歴史的、文化的伝統への興味とその振興への刺激となりました。これによって、民族意識と政治的・文化的成熟度、そして独立による発展のための熱意を著しく向上させられました。

 

ページトップへ

 

サマルカンド

 

サマルカンドの町はゼラフシャン川の谷に位置しています。ウズベキスタン第二のとして、生まれたのはバビロンやローマと同時期です。サマルカンドは約2500年の歴史を持ち、アレクサンダー大王、アラブ人、チンギス・ハン、そして最後はチムールによる征服などの激動の時代を体験してきました。このように、サマルカンドの文化は、イラン、インド、モンゴル、そして若干の西洋と東洋の文化が混じり合って発展しました。壮麗で美しいサマルカンドの町は、素晴らしい魅力を持っている。過去の詩人や歴史家は、「東のローマ」、「月下美人」、「東のモスレム世界の真珠」などと呼びました。ザラフシャン谷という絶好の地理的位置のおかげで、サマルカンドは中央アジアの諸都市の中でも最高の地位を得ることができました。

 

バビロン、メンフィス、アテネ、ローマ、アレクサンドリア、ビザンチンなど、他の人類最初の文明発生の地と同様に、サマルカンドも急激な事件と激動を生き抜くことになりました。

 

サマルカンドの歴史は数千年前に遡る。考古学的発見や、目撃者や古い歴史家の残したものの分析調査の結果、現在の市域に、紀元前何千年も前から人が住んでいた確立が高いことが分かっています。

 

特別に有利な地理的位置、比較的涼しい気候、オビ・ラフマット(「恵みの水」)と呼ばれる美味しい水をもたらす自然の泉が豊富であること、野生の大きな鳥類のすむ山岳に近いこと、近くを流れるゼラフシャン川の流れ、これらすべてがこの地域に人類の定住を可能にする最適な条件を与えてくれ、サマルカンドに、紀元前数世紀前、強固な城壁、城、壮麗な建物、寺院が建ったのです。

 

古代歴史研究によると、当時マラカンダという名前で知られていたサマルカンドに関する最初の記録は、紀元前329年のマケドニアのアレクサンダー大王の遠征を目撃または遠征に参加した者たちによる描写です。

 

その時点で既に、サマルカンドは多数の人口を抱え、工芸、商業、文化の発達した、大きな都市でした。そこには難攻不落の要塞と、10.5キロに及ぶ長い防護用外壁がありました。

 

新たな考古学的発見により、サマルカンドはギリシャ・マケドニアが勝利するずっと以前に発生し、アケメネス朝国家が発達した時期(紀元前6-4世紀)にはすでに相当の発達を見せていたと、科学者達は結論づけました。 そのため、サマルカンドの年齢は、実はもっと古いのですが、アフロシアブの森の丘で生まれてから2500年と丸めた数字で表されることになりました。歴史上、この都市は、町中での残酷な大量虐殺を目撃し、ギリシャ・マケドニアの鉄の甲冑、冷酷な西遼の遊牧民の群れを目撃し、さらにイスラム教の宗祖モハメットの狂信的な信奉者であるアラブの将軍たちによる壊滅的攻撃にも耐えました。血に飢えた、チンギス・ハンの軍隊が、平和に暮らす家々を火と剣で襲ってきました。サマルカンドはインダス川からボスフォラスまで広がる冷酷なチムールの世界帝国の首都になりました。

 

チムールの死後、彼の帝国はすべて子や孫の政権に移行しました。サマルカンドとその近隣地域は、チムールの孫のウルグベックの支配に委ねられました。ウルグベックはサマルカンドを40年間支配しました。ウルグベックは歴史上最も平和を愛好した支配者でした。自らの国を治めるのに、強硬な手段はほとんどとりませんでした。何度も外国を訪れましたが、それはそれぞれの国の伝統、文化、習慣を知るためだけでした。彼は偉大な科学者であり、天文学者であり、数学者であったため、自分の国の科学の発展のため、他国からの科学者を多数連れてきました。

 

実は、チムールの孫はムハンマド・ タラガイという名前でしたが、幼少の頃からとても賢い子供だったため、祖母、つまりチムールの妻が、彼にウルグベックという名前を授けました。ウルグは賢い、能力のあるという意味です。そのため、このチムールの孫は歴史上ずっと、ウルグベックと呼ばれているのです。

 

サマルカンドは、中央アジアの他の多くの都市と同じように、旧市街と新市街の二つに分かれています。新市街は、産業と文化の中心であり、高等教育施設が整った、行政地区です。サマルカンドには、医学、農業、建築、組合、外国語の単科大学があり、さらに10学部からなる国立総合大学があります。旧市街は歴史的な記念碑や、商店、小さな学校などがあります。旅は、旧市街と新市街の両方にまたがります。

 

サマルカンドの人口は約50万人です。サマルカンドは多国籍の町で、100カ国からの人が住んでいます。サマルカンドは人口と面積で、ウズベキスタンで第2位の位置にあります。

 

ブハラ

 

ブハラはウズベキスタンで最も古い都市のひとつで、拝火教の信者たちが春の生贄を捧げた聖なる丘にあります。この町のことはゾロアスター教の聖典「アベスタ」にも書かれています。ブハラの町は、アレクサンダー大王よりも980年早く権力を握った、シヤブシッドの治世の紀元前13世紀にできたと言われています。ブハラという名前はサンスクリット語で「修道院」を意味する「ビハラ」に由来しています。ブハラの町は、かつて大シルクロードの一大商業センターでした。

 

ブハラはサマルカンドの西に位置し、かつてイスラム世界の学術の中心として名を成していました。偉大なる長老、バハウディン・ナクシュバンディが住んでいたのはまさにここでした。彼は、神秘主義哲学、宗教、イスラム教を主唱した「スーフィー主義」の発展の中心人物でした。ブハラには350以上のモスク、100以上の神学校があります。この町は、次から次へと交代する帝国の中で、栄枯盛衰を繰り返し、17世紀にはついに、中央アジアのなかの偉大なハン国にまで発展しました。

 

140を超える建築物を誇るブハラの町は、中世にまで遡る、博物館都市です。2300年を経た現在、「ポイ・カロン」、「コス・マドラス」、「イズマイル・サマニ廟」、「カラン・ミナレット」などの建築群が注目を浴びています。町は、狭い通りと、緑の公園や庭園、そして歴史的な建築物などからなっており、それらはみな異なる時代に属しながら、すぐ隣に並んでいます。

 

ヒバ

 

ホレズムは長い歴史を持っています。それに比肩できる文明はそう多くありません。大シルクロードが出現するよりも数百年も前、古代ホレズムは、ヨーロッパ、東洋、シベリヤ、そして南の文明との関係を築いていました。ヒバはウズベキスタンが育んだ三つの文明のゆりかごです。

 

ホレズム・ハン国は、紀元前4世紀、非常に有名でした。それは強大な国家でした。おとぎ話に出てくるようなヒバの町は、「イチャン・カラ」と呼ばれる旧市街の部分が、東洋的な、エキゾチックなイメージを持ち続けています。イチャン・カラは、すべての記念すべき建築物が建っている場所です。クニャ・アルク・シタデルがあり、華麗な門も破壊されずに残っており、ハンの住居であった「タシュ・ハウリ宮殿」があります。さらに、イチャン・カラは、中世の建築様式の単純さと記念碑らしさ、木彫細工の繊細さ、そして装飾の巧みな組み合わせを見せています。高くそびえるミナレット、それを囲む、平屋根の土でできた建物と、同じく土でできた強固な外壁の要塞の姿は、中央アジアの封建時代の典型的な都市のイメージを提供してくれています。

 

「屋外博物館」と形容されるヒバの町は、2500年の歴史を誇る、人口4万人の町です。ブハラから450キロ離れた、キジルクム砂漠の中に位置しています。ヒバは、神学校とモスクとミナレットから成っています。アジアで最も多くのミナレットを持つ町です。例えば、背が高く、美しい「イスラム・ホジャ・ミナレット」、さらに、有名な「カルタ・ミナル・ミナレット」(1835年)があります。218本もの木彫り装飾された柱がある「ジュマ・モスク」も主な見所のひとつです。

 

タシケント

 

現在ウズベキスタンの首都になっているタシケントは、これまで、時代によって、チャチ、シャシ、ビンケントなどの名前で呼ばれていました。それぞれの名前は町の歴史の一部です。タシケントはいつも国際交通の合流点でした。残念なことに、1917年の革命以降の、歴史的、宗教的な建築物の取り壊し、さらには1966年の大地震のため、古い建築物はほとんど残っていません。中心街の西に広がる旧市街の中に、古い建物がいくつか建っています。狭く、曲がりくねった、横道がたくさんあり、より現代風に変わったタシケントと明らかな好対照をなしています。古い建物のなかでも特に興味を引くのは、現在博物館として保存されている、16世紀の「クケルダシ・マドラサ」と、「カファリ・シャシ廟」です。タシケントのイスラム教施設の多くは、例えば「ハスト・イマム」のように、イスラム教信者以外には開放されておらず、訪問する人は中に入る前に必ず許可を得なければなりません。

 

タシケントには、ウズベク文化やウズベク以前の文化を展示する博物館が、多数あります。例えば、絵画、陶磁器、ブハラ風宮廷衣装などを収蔵する「国立美術館」があります。「装飾工芸博物館」は、刺繍の壁掛けやアンティーク装身具の複製品などを展示しています。西洋ではタメルランという名で通っている、アミール・チムールのような歴史的人物が、より大きな存在感を与えられたり、博物館の展示内容や表現も変化しています。

 

ウズベキスタン共和国の首都、タシケントは、中国からヨーロッパへの大シルクロードの交差点に出現した古い町です。

 

集落としてのタシケントに関する最初の記録は、紀元前2世紀の古い東洋の文献の中に現れます。中国の文献の中では、「ユニ」と呼ばれました。紀元前262年の、ペルシャ王シャンプール1世の「ゾロアスターの神殿」の記述の中では、タシケント・オアシスは「チャチ」と呼ばれています。ある中国文献の写本の記録では、この町は「シ」、アラビア語で「シャシ」と呼ばれていました。ビルニーとマフムッド・カシガリの言葉を借りると、タシケントという名前は9-12世紀のトルコの文献から現れました。15世紀のロシアでは、「タシクラ」という名前で通っていました。

 

古代からずっと、その有利な地理的位置と良好な気候のおかげで、タシケントは大シルクロード交易の主要地点の一つとされてきました。この指摘の正しさの証拠として、ジュン川の水が灌漑している現在のタシケントの南部地域で、都市のような定住の跡が見つかりました。防御用の武装壁や、泥レンガでできた建物を含む円形の城塞の跡が発見されたのです。シタデルの防護用外壁の中にはアーチ型の廊下があり、外に突き出た塔のような出っ張りが備えてあり、当時の城塞としての目的を考慮して建てられたことを示しています。旧市街の最大の市場であったチョルス広場は、9世紀に出現しました。チョルスに向けてすべての門から交易道路が延び、そして市場通りに変化しました。この広場は輸送通路であると同時に商店街でもありました。

 

6世紀にはここに、「クキルドシ・マドラサ」が建てられました。

 

現在のチョルス広場の位置には、「チョルス・マハラ」と「ティカンリ・マザル」と「チュクル村」がありました。現代になり、チョルスは再建され、「国営グム・デパート」、「市営中央薬局」、「チョルス・ホテル」他の近代的な建物が建てられました。マハラは古い広場と商店街の周りに現れ、通常、職人たちの仕事によって呼び分けられていました。

 

例えば、シャイハンタウル「パダルクシ・マハラ」は、以前は機織の町を意味する「ブズチ・マハラ」と呼ばれていました(現在ではC-13団地になっています)。近くには他のマハラもありました。例えば、北には「アルカ・クチャ」、南には「ドクチ」と「ザンジルリック」、西には「プシティバッグ」、東には「クドクバシ」がありました。シャイハンタウルの「デロズ・マハラ」(別名:デグロズ)デグロズ(ボイラー製造者)から採った名前です。ここには鋳物工房が20軒ありました。シブザル・ダハには、「アフングザル・マハラ」があり、蹄鉄の町という意味で、ここには多数の蹄鉄工房がありました。さらに、「トクリジャロブ・マハラ」は、そこで人々が家畜の交易を行っていたため、そう名づけられました。

 

タシケントは裕福な商人や食品たちの町であったため、大きな建築物は、主にキャラバンサライ、モスク、廟などの建設計画と協力して建てられました。

 

現代まで残った古い建物は、キャラバン道路に沿った廟であり、それらは聖なる長老に捧げられたり、単に人生の幸運を願ったり、お祈りをしたりする場所ではなく、飽き飽きさせるような砂漠の道路の沿道を、すこしでも独創的な景色で飾ろうという試みでした。

 

タシケント市内と、市に通じる道路には、そのような廟が数十箇所存在します。

 

テルメズ

 

テルメズはアムダリヤ川の左岸にある、中央アジアの古代都市のひとつです。町は、長い歴史の中で、現在の市域の周辺のいろいろな場所に移動を繰り返し、歴史的な遺構に何層もの文化を残しました。町の創設時から発展してきた文化的遺産は、町が平和的降伏を拒否したため、1220年にチンギス・ハンによって完全に破壊されました。古い町の東側に新しい町が建設されました。カスティリア王ヘンリー3世がアミール・チムールのもとへ派遣した、ルイ・ゴンザレス・デ・クラビヨ大使が、この新しい町のことを最もよく描写しています。「町に入った後、われわれは、いくつもの広場を横切り、人込みの多い街路を、長い間歩き、家に戻ったときには、疲れと怒りで一杯だった」と。19世紀に築かれた新しい町は、中世後期の場所の南側、つまりアムダリヤ川に近い方向に発展していました。チンギス・ハンに破壊される以前は、1世紀から7世紀までの間、古代テルメズの思想の中で、大きな位置を占めていたのは仏教でした。町の周辺で行われた考古学調査で、いくつかの仏教遺跡が発掘され、テルメズが仏教の中心地であったころの日々を思い起こさせました。

文化

もてなし:ウズベク文化の本質

もてなし、それがウズベク文化の本質です。人々は古代シルクロードにつながる横道に住み、東から西へ、絹や陶器などの商品を運んで往復する外国人との交易に、強く依存する生活を営んでいました。いつでも、誰もが、国籍を問わず、「神に遣わされた人」として扱われました。それに、ウズベク人は、人と会うのが大好きで、好奇心の旺盛な民族で、いつもいろいろな国籍のお客様に会えるのを楽しみにしているのです。

チャイハナ

ウズベキスタンは、人々が集まり、一杯のお茶を飲みながらおしゃべりをし、冗談を言い合って時を過ごすチャイハナ(茶店)で有名です。それは、料理を含め、家事を女性がするという文化の一端を担っています。実はウズベク人の男たちは料理が上手で、チャイハナは、みんなで集まってプロフ(肉と野菜入りの米)や、カザン・カボブ(油で揚げた肉とジャガイモ)を作る場所なのです。

バザール

バザールは、売る、買うという本来の目的から離れて、交流の場になっています。バザールで一番楽しいこと、それは値段の交渉です。人はみな値引き交渉をするのが大好きなのです。ウズベキスタンを訪れたら、必ずバザールに行って、値引き交渉を自分でやってみてください。騒がしくて、派手で、変化に富んだバザールの雑踏は、いつまでも忘れられない思い出になることでしょう。

食事

ウズベク料理は、東洋料理の中でも最も色鮮やかな料理のひとつと言えます。ウズベク料理の献立には何世紀もの歴史を持つものもあり、驚かされるかもしれません。いろいろな伝統的な儀式や、調理の方法が決められているものもあります。民族飲料、ケーキ、菓子類を含めて約一千種類の料理があります。

ウズベク料理の外見と風味はいろいろです。また、毎日のように作られる料理がある一方、旬の素材に影響される季節料理、さらには各種行事を祝うための特別な料理もあります。伝統的なウズベク料理がどんなものかのイメージを持っていただき、ウズベキスタンに来られたとき、何を注文したら良いか心の準備をしていただくために、以下いくつかのレシピーを紹介しましょう。


シュルパ」

にんじん2個、じゃがいも2個、たまねぎ2個、トマト2個(中サイズ)、かぶ400グラム、唐辛子1個、骨付き肉300グラム、骨200グラム、塩適量。骨を洗って、冷水を入れた深鍋に入れて、1時間半とろ火で煮る。スープを網で漉し、肉とすべての野菜を大きめに切って加え、軟らかくなるまで煮る。好みの量の塩を加える。


「ラグマン」

長めの手打ち麺の上に、肉の切り身、野菜、香辛料をかける。具が豊富で、スパイシーなシチュー。麺はフォークで、汁はスプーンで食べる。一人前づつ別々のどんぶりに盛る。


「マンパール」

ラグマンに似た料理。切り刻んだパイ生地に、スパイスのきいた肉と、野菜のシチューをかけたもの。どんぶりに入っており、スプーンで食べる。


「チュチュバラ」

肉餃子。パイ生地に、ひき肉・たまねぎ・香辛料を詰めた小さな餃子を、味のついたスープに入れて煮込み、熱いうちにどんぶりに入れて出す。スプーンで食べる。サワークリームかヨーグルトをかけることもある。


「プロフ」

米1キロ、えんどう豆150グラム、脂肪(または植物油)300グラム、人参400グラム、玉ねぎ2個、好みによって塩および各種の香辛料(zira,メギ、コショウ)。夾雑物を取り除いた米を、数回洗い、2時間ほど温かい塩水に浸す。プロフを作り始める前に、先ず、えんどう豆を洗い、10-12時間冷水に浸しておく。米とえんどう豆が膨らんだら、プロフ作りに取り掛かる。たまねぎはスライス、人参は角切り、肉は150-200グラムの塊に切る。丸底の大きな鍋で脂肪を熱し、肉を入れて、焼き溶かす。そこにたまねぎのスライスを加えてよくかき混ぜ、弱火で炒める。たまねぎの色が変わり始めたら、人参と膨らんだえんどう豆を投げ入れる。大なべの中の食材と同じ水位まで水を加え、えんどう豆が軟らかくなるまで約1時間加熱する。塩と香辛料で味付けする。米を浸けていた水を捨てる。人参の上に、米を平らに敷き詰める。強火にして蒸す。人参と混ぜないように気をつけながら、ときどき杓子で米の層をひっくり返す。水分がなくなり、米が蒸しあがったら、米を鍋の真ん中に積み上げ、火を消し、蓋をして、さらに20-25分間よく蒸す。出来上がったら、材料をよくかき混ぜ、肉を取り出す。大皿に積み上げ、肉を細かく切って頂上に乗せて食卓へ。


「マンティ」

皮:小麦粉500グラム、塩・茶さじ1杯、水・グラス半分。詰め物:羊肉1キロ、たまねぎ400グラム、尻尾の脂肪100グラム、塩水・グラス半分、黒コショウ・茶さじ1杯。小麦粉で厚い生地を作り、延ばして玉を作り、10-15分置く。生地を、小粒のくるみの実くらいの大きさの玉に切り、薄く延ばして、丸く平らな皮を作る。別の方法として、生地全体を長い延べ棒で薄く延ばし、それを10センチ角に切って、四角い皮のそれぞれに、大さじ1杯の詰め物と角切りした尻尾の脂肪を乗せてもよい。斜めに折って、マンティが長円形になるように角や端を指でつまむ。生地が乾いてひび割れしないように、調理前のマンティを生地の上に並べておくとよい。詰め物の作り方は、先ず、羊肉を小さな木の実程度の大きさに切るか、ひき肉機で挽き、それに、たまねぎの乱切りまたはスライス、黒コショウの粉および塩水を加える。よく混ぜ、指でこねる。マンティを蒸す。蒸し器の底板に油をひき、その上にお互いにくっつかないように並べる。冷水をかけ、45分ほど蒸す。1人前2-4個を皿にのせ、スープとサワーミルクをかけて食卓に出すか、大皿に移して、黒コショウの粉をまぶしてもよい。

 
「サムサ」

肉、たまねぎ、羊の尻尾の脂肪を、タンディールという特別なかまどで焼いたパン。


「シャシリク」

ウズベキスタンで出される、最も人気のある料理のひとつ。味付けした羊肉(時には牛肉も)や脂肪を金串に突き刺し、炭火で焼いたもの。シャシリクは種類も豊富で、最も有名なのは肉とレバーである。熱々のシャシリクには、刻んだたまねぎが付いてくる。食べるときには、まだ熱いうちにこしょうと酢をかけるとおいしい。

工芸美術はウズベクの伝統

ウズベキスタンの工芸美術はまさに文化的および歴史的現象です。それはウズベクの伝統のおかげで有名になったのです。ブハラ、サマルカンド、ヒバ、タシケント、フェルガナの美しい建築物は、そこにある工芸美術作品で知られています。それらの魅力的な作品群は、木彫、彫金、塗り物、刺繍、装身具に限らず全てウズベキスタンの芸術の達人たちによって製作されています。現在の工芸美術は、博物館に展示されている古代芸術だけではありません。20世紀に住む人々も、見事な製品群に見とれ、家屋の壁には刺繍製品、じゅうたん、陶器、彫刻物を飾ってきたのです。伝統的に、刺繍のカーペットは暗い色が多くありました。木彫では、タシケントとフェルガナの職人は、小さなテーブル、いす、箱、ドア、その他各種のお土産品などの製品で人気を博しています。ウズベキスタンにいる間、お土産や贈り物を買うだけでなく、ウズベクの素晴らしい文化と伝統を愛でることができます。

文化:ウズベキスタンの民芸品

ウズベクの民芸品の起源は、歴史の深淵の中に隠されています。各地で数多くの考古学的発掘作業が行われた結果、 古い土地と文化の、新しい側面が掘り起こされています。ウズベクの工芸美術は、スタイル、材料、装飾の面で、広範な多様性に富んでいます。陶器、絹織物、綿織物、木彫、石彫、金属彫刻、皮革製品、書道、細密画などが、古代から受け継がれた分野のいくつかです。過去において、いろいろな宗教はそれぞれ独自の文化的、民族的伝統を維持してきました。これらの独特な特徴は、それぞれの土地の職人たちの技術を通して強化され、そして確立されてきました。

ウズベクの陶器

ウズベクの陶器の色とデザインは極めて多様です。形も同様に独創的です。最も有名な中心地は、フェルガナ盆地のリシタンと、ホレズムのグルムサイです。両方とも釉薬を塗った白青磁で高い評価を得ています。ウズベクのもう一つの工芸品として、サマルカンドの特産品の陶器、水パイプ、そして噛みタバコ入れの製造技術をあげることができます。

装身具

ウズベクの職人たちは、今日でも昔ながらの装身具製造技術を使って、宝石のカット、金細工、粒加工、彫刻、型押し、彫金、エナメル加工を施しています。現代の装身具製造業者は、単に伝統を守るだけでなく、最新の流行やスタイルも取り入れています。

文化:ウズベキスタンの彫金および彫刻

昔からブハラ、タシケント、サマルカンド、ヒバなどのウズベキスタンの大都市は、伝統的な製法による銅の彫刻技術の中心地でした。地方ごとに特徴的な形やデザインがあります。この技術の中で最も人気のある製品は、水差し、急須、盆、さらに最近は、洗面台、洗面器、バケツ、大きめの鉢です。図柄をエンボスした銅製品は以前から高い評価を得ていましたが、今日でも人気は衰えていません。

刺繍および機織技術

ウズベキスタンの工芸技術のなかで、最近特に人気が高いものの一つとして、刺繍をあげることができます。ウズベキスタンの中で、刺繍で高い評価を得ている町をあげるとしたら、ヌラタ、サマルカンド、ブハラ、シャフリサブズ、スルハンダリヤ、タシケント、ジザフ、そしてフェルガナです。各地方はそれぞれ、装飾、構成、色使い、針目の面で固有の特色が認められます。伝統的な刺繍技術は、今でもウズベクの人々のなかに生きています。 刺繍織物は、広くブハラ、シャフリサブズそしてタシケントの工房で生産されています。金の刺繍は刺繍の王様です。この技術はずっとブハラで培われてきました。もう一つの古くからの技術は機織です。機織の豊かな歴史と伝統はいまでも生きています。綿織物と絹織物は、中央アジア全域のどこへ行っても、大きな需要がありました。 これらの貴重な織物の製造法の秘密は、ここでは大シルクロードが成立するずっと以前から知られていました。機織技術は今でもフェルガナ盆地に生き続けています。そして当然ながら、今でも手織りの織物は機械織りの織物より好まれています。